こんばんは、
くーる&ほっと ホームページ管理人です
さて、タイトルの「桐生は日本の機(はた)どころ」ですが、群馬県内でのみ有名な「
上毛かるた」の「き」で詠われています
今回は、なぜそう言われているのか、桐生の織物の歴史について書いてみたいと思います


江戸時代に「西の西陣 東の桐生」と言われたほど絹織物で栄えた桐生
元々は、今から1300年もの昔の奈良時代に、朝廷に絹織物を差し出したのが桐生織物の始まりだと言われています
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されていて、桓武天皇の時代に京都の宮中から桐生に移り住んだ「白滝姫」が、桐生に絹織物を広めたとされています。
白滝姫が桐生に来たて桐生市川内の山々を見て「あの山々は、京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を『仁田山紬』というようになり、江戸時代前期までは「仁田山紬」と言われていました
その後、平安時代には絹を税として納めてるなど、織物が桐生の特産品として国内に知れ渡りましたが、応仁の乱(1467年)による戦乱により、桐生の絹織物も一時衰退しました
しかし、その状況が一変するきっかけになったのは1600年の関ヶ原の戦いでした
関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が栃木県小山市にいるときに、石田三成を討伐することを決めたのが「小山評定」と言われていますが、その際に不足した軍旗を短時間で揃えたのが、桐生領の54村でした。桐生の職人たちは徳川家からの要請に応え、わずか1日ほどで2410丁もの旗を供出、東軍の勝利に貢献したという逸話が残されています
また、1722年には、今の三越の前身である「越後屋」が、桐生の絹を買い付けるために桐生に駐在員をおきました
現在も桐生市の本町二丁目に三越がありますが、桐生の支店が三越の支店の中で一番古いとも言われているそうです
明治期になり、明治維新の流れに乗ってジャガード機の導入など機械化が進み、大正期には人絹糸(レーヨン)の生産が盛んになり、明治から昭和初期にかけて、桐生の織物は世界に輸出されるほどまでに成長しました
この時代の名残で、れんが造りの建物やノコギリ屋根の建物が数多く残っています
そのため、桐生新町地区は、2012年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていますが、この建物が今の桐生の観光資源となっている訳です
戦後、日本人の和装離れ等により、繊維業は下火になって行きますが、今までの歴史の積み重ねから、桐生産・群馬産の縫製品の品質は高く、そのような商品を皆様に提供したいという思いで、この「くーるあんどほっと」を通じて紹介して行きたいと思っています
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